MarioPamuk’s diary

海外文学と学術書の短文感想&忘備録

“2500年を経たトロイア王女の再発掘”

16「カッサンドラ」

🇩🇪ドイツ

クリスタ・ヴォルフ

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トロイア戦争は伝説と思われていた。しかしドイツの実業家シュリーマンは、幼い頃にギリシア神話を読んでトロイア遺跡の存在を確信し、貿易成金として築いた莫大な資産を遺跡探索に費やし、遂にトルコのダーダネルス海峡付近でトロイア遺跡発掘に成功した。ドイツは古代文明の有名な国に植民地を持っていなかったが、それ以降も古代ギリシアやオリエント考古学の研究は盛んで、ベルリン5大博物館にも展示が非常に多い。しかし冷戦で東西ドイツは分断され、学問も経済も開放的になった西ドイツとは対照的に、東ドイツは男性中心の管理前提で学問軽視、徹底した国家警察の権力にねじ伏せられてきた。だから東ドイツ物理学者の名指導者アンゲラ・メルケルが、東西統一後に長期政権を維持したことは、ドイツ史上でも非常に意味があるのだ。この様な背景を考えれば、東ドイツ出身では珍しい女性作家だったヴォルフが、トロイア戦争で黙殺された女性予言者カッサンドラに注目するのは当然だろう。まずカッサンドラはギリシア神話においてトロイア側の人間、即ちギリシアの敵なのである。ご存知の通りヨーロッパ知識人は、ヨーロッパ文明の源流を古代ギリシアに求める。従ってこのトロイア戦争叙事詩イリアス」のハイライトは、当然ギリシアに集中するのが一般的だった。カッサンドラは「イリアス」においてトロイア王女で非戦闘員の脇役、しかし太陽神アポロンへ愛の献身を代償に予言者となった。その力でトロイアの木馬に隠れたギリシア人が侵入し、やがて母国が滅びることで知る。当然トロイアの仲間に予知の結果を伝えるが、戦士の主役はあくまで男性、カッサンドラの言葉など誰も信じてくれない。実はカッサンドラはアポロンへの愛を拒否したため、彼女の言葉を誰も信じない懲罰を受けたのだ。この心情を1人称で憤怒と激昂の言葉を散りばめながら、ラストまで持っていく。男女不平等社会を糾弾した作品であることは言うまでもない。それを従来の神話とは異なる解釈で、ナショナリズムに担がれがちな民族叙事詩の敵国の女性非戦闘員視点で描く。マーガレット・アトウッド「ペネロピアド」、パット・バーカー「女たちの沈黙」、アン・カーソン「赤の自伝」など、近年ギリシア神話はリライトと共に女性やマイノリティの面から、新解釈を与える傑作が続々と出現している。その嚆矢がヴォルフであり、サルトル的な深遠さで持って、不条理世界を浮き彫りにする。メルケル政権が誕生し成功したのも、ヴォルフの貢献が多少なり影響しているのかもしれない。