MarioPamuk’s diary

海外文学と学術書の短文感想&忘備録

【池澤夏樹 =個人編纂 世界文学全集40作品の感想】

池澤夏樹 世界文学全集40作品の感想

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作家・書評家・翻訳家にして、驚異の世界文学通の池澤夏樹

その個人的ベスト40長編、39短編をまとめた世界文学全集を読み終えた。


「興味あるし読みたいけど、長編は長いし高いし、どれから読めばいいか分からないので、何かしらの指標が欲しい!」


…という方に個人ランキング形式でご紹介(あと自身の忘備録も兼ねて笑)


というわけでまずは概要から!


非常にバラエティ豊かなラインナップだが、基本的には世界的に有名な一流作家が8割、残り2割も勿論有名ではあるが、池澤夏樹の好みで選んだ感が強い。作品別で見れば、その著者の代表作が7割、3割はやはり池澤夏樹の好みが強い印象だった。結局はなんだかんだでオーソドックスな名作で揃えてある。


ではその池澤夏樹の選出基準はというと、①古典のオマージュ作品、②紀行・異文化理解or衝突がテーマの作品、③小説構造や芸術性の技巧が高い作品、④自伝orサーガor教養小説形式の私小説的作品、⑤政治・社会を糾弾した作品、主にこの5パターンに分類できる。


また池澤夏樹自身が既に高齢のためか、21世紀の作品は唯一リョサ「楽園への道」(2006)のみ、それ以外は20世紀の作品と好みが若干古い印象は否めない。若い内に読んだ本が印象や愛着として残るのは当然で、その中からお気に入りを選んだのだろうから仕方ないかもしれない。というわけで、直近20年の名作はリョサ以外に収録されていない。


しかし短編含めば、この全集刊行後10年足らずで、ノーベル文学賞受賞者が既に3人も出ており、その慧眼は流石だなと思わされる。


この全集の特徴は非西洋文学が多い点、試しに列挙すると作家の国籍は以下の通り。


🇫🇷フランス…6人(モーリシャス二重国籍)

🇺🇸アメリカ…5人

🇮🇹イタリア…4人

🇬🇧イギリス…4人(ポーランド二重国籍)

🇨🇿チェコ(スロヴァキア)…3人

🇩🇪ドイツ…2人

🇵🇱ポーランド…2人(イギリスと二重国籍)

🇺🇦ウクライナ…2人(ポーランド二重国籍)

🇷🇺ロシア…1人

🇨🇳中国…1人

🇯🇵日本…1人

🇲🇽メキシコ…1人

🇩🇰デンマーク…1人

🇵🇪ペルー…1人

🇻🇳ベトナム…1人

🇲🇺モーリシャス…1人(フランスと二重国籍)

🇿🇦南アフリカ…1人

🇳🇬ナイジェリア…1人

🇨🇱チリ…1人

🇩🇲ドミニカ国…1人

🇷🇸セルビア…1人

🇷🇴ルーマニア…1人


これを見ると圧倒的に欧米率、それも西欧とアメリカの割合が高い。確かに小説は近代欧米で発生し、歴史も当然長いので必然的に欧米作家の名著率も高くなる。これでは世界文学と言えないのでは?、と思ってしまうがそれは違う。上記の作家は国籍こそヨーロッパでも、舞台はアジアやアフリカという作品が多いのだ。その意味で従来の世界文学全集とは異なる。更に小説の舞台は1カ国に留まらず、例えばルポ文学「黒檀」はそれが17カ国にも及ぶ。


尚、私も世界一周をしていて旅好きなので、池澤夏樹には個人的に共感できる面が多い。またテーマ・文体・芸術性に長けた作品が軒並み、読者目線でも1〜10位くらいの順位は、概ね似たランキングになると思われる。

というわけで多少の独断と偏見はお赦し頂き、主観分析で感想を述べていきます。

 


浄瑠璃の如きわが水俣への鎮魂歌”

1「苦海浄土

🇯🇵日本

石牟礼道子

世界文学全集の堂々1位は文句無しに日本文学の「苦海浄土」に決めた。当然だが決して日本贔屓の結果ではない、客観的にも妥当な順位だろう。傑作という言葉では形容し足りない、“奇跡の書物”と讃えたい作品だった。疫災は即ち人災である。本当に怖いのは病原菌ではなく、パニックに陥り理論破綻した行動を取る人間なのだと。それを知っていたからカミュは「ペスト」を書いた。ならばその上位互換の公害病は”国災”といえる。熊本県水俣市の日本窒素工場に有機水銀が排水された。そこに生息する魚を食べた漁師や町人を中心に謎の奇病”水俣病”が発症。患者は脳中枢や神経が毒に侵され、全身の麻痺や海の幸は苦海に変貌し、黒い赤子が生を受ける。マスコミも政府も工場も街も見て見ぬ振りを決め込む。同郷出身主婦の石牟礼道子は憤り、事件の救済を待つ市民を記録し本書を出版した。そのため3部作1章の「苦海浄土」は事の起こりから患者や病気の解明、工場提訴までが描かれる。時系列に反するが、次に出版されたのは3部作第3章「天の魚」で、15年に及ぶ市民と会社、市民と国家との決着を描く。最後に3部作第2章「神々の村」が刊行、著者自身が患者のカルテや東京本社への取材や株主総会出席、日本窒素会社(チッソ)やスト参加学生との対面や書面と、膨大な資料を基に作成したため、3部作で最も執筆に時間がかかった。しかしその分、3部作屈指の凄まじい熱量と完成度を誇る。東大出身の会社幹部やエリート官僚、中でも首相になる前の橋本龍太郎政務次官を始め、被害者の水俣病患者は悉く見捨てられていく。その姿勢は福島原発事故後の東電と政府の対応と全く同じ、誰も責任を取ろうとせず、現に歴史的事故を起こしながら水俣工場は現在も操業中である。当時の熊本と東京は市民にとって、距離的にも文化的にも余りにかけ離れていた。初めこそ国が助けてくれると信じていた患者は腑を煮えくり返し、極度のハンストや社長直訴に自身の指を契りに血書を迫るシーンもある。結局、水俣病の科学的解明は国や会社ではなく、民間の在野の研究者によって成された。余りに多くの死者の心の叫びを掬い、少しでも多くの救いを願った本書はまた、熊本弁が織りなす詩的な文章の美しさが世界中で翻訳され、東南アジアのノーベル賞マグサイサイ賞”も受賞した(但し辞退)。例えば食の描写が非常に豊かで、鮮魚の生刺身はグルメ通も唸る巧みさ。自然描写もまた美しく、樹木草花の名前が百花繚乱の如く出てくる。「十六夜橋」でも見られた死者と生者の対話の様な会話もエスプリが効いていて、これは詩人としても活躍した著者の面目躍如だろう。そして改めて気付かされる、水俣病は人だけではなく自然と生態系を破壊したと、「苦海浄土」は水俣近代史そのものなのだと。雑誌連載から始まったルポが、壮大な作品に膨らんでいった。石牟礼自身は本作を浄瑠璃、即ち音楽劇の語り物に例えている。だから副題にも”わが水俣病”と付されている。これは私個人の意見だが、芸術は究極的に音楽に収束する。一般に個人の記録が芸術や文学を生むが、集団の記録が芸術文学を生み、更にその作品が歴史に記録される例は稀だ。そういう作品は紛れもなく傑作であり、芸術としても記録としても文学としても語り継ぐ必要がある。「苦海浄土」はその代表例だ。果たして福島から第2の石牟礼道子は出てくるだろうか?、いずれにせよ、浄土を願い戦い続けた全関係者に捧ぐ詩的鎮魂歌として、今後も文明と人権と国家の正当性を問う書物の役割を果たし続ける作品になることは間違いない。

 


“早すぎる自伝ー賜物となった贈物”

2「賜物」

🇷🇺ロシア

ウラジーミル・ナボコフ

個人的に最近ナボコフに嵌っている。しかしそんな主観的な意見を差し引いても、「賜物」は群を抜いて傑作だと思う。理由は簡単で、著者ナボコフが本作執筆時点で、自身の書きたいことを余す所なく書ききっているからだ。ナボコフを読むと、偉大な作家は才能と経験と出自が、やはり大きく左右すると思わされる。38歳アメリカ亡命前、ロシア語執筆では最後の作品、以後は英語創作に専念して「ロリータ」で出世した。ロシア語創作との訣別を意味するため、若くして一時的に集大成的な試みを託した半自伝的作品。ゆえにナボコフ作品のエッセンスが凝縮されており、言語や文学技法からロシア文学批評に小説内小説と、全5章が1長編に匹敵する密度の濃さ。自身の趣味であるチェスや恋愛体験、博物学者で中央アジアを探検した父の伝記の小説内小説(作中で挫折)、歴史小説の小説内小説まるまる、更にその歴史小説執筆後の文壇の反応、作家の亡命まで。所謂ビルドゥングスロマンを1作品に捩じ込む、しかもそのモデルが作家本人というのだから、神業という他ない。「賜物」には既に「ディフェンス」や、「ロリータ」の雛形が散見される。その文学思想や技巧の原型が見受けられる点で、ナボコフ作品を読む上で無視できない1冊だ。

 


ブラックアフリカに白眉を顰める”

3「黒檀」

🇵🇱ポーランド

リヒャルト・カプシチンスキ

即時性において、文学は動画やSNSにはまるで敵わない。では文学は報道に対して無力なのか?、いや寧ろジャーナリズムの真髄はそこにあるし、あるべきだ。カプシチンスキは、徹底した取材と芸術的な文章でそれを証明してきた。即ちルポ文学。サルマン・ラシュディをして、「雑多なジャーナリスト何千人が束になろうとカプシチンスキ氏1人には敵わない」と言わせしめる 。7カ国語を解し、50の歳月を費やし、100の国を歩き、27の政変と建国を見た。彼の17年に及ぶアフリカ取材の集大成が、サハラ以南17カ国を舞台にしたルポ作品「黒檀」だ。私も旅ブログを50カ国ほど書いていたから分かるのだが、その分析力と筆力の高さには感動と驚嘆を覚える。例えばヨーロッパ人が象牙を乱獲する際、明らかに野生の狩猟対象頭数が、想定する象牙収集率と合わない話。アフリカ人に尋ねるが教えてくれない、調べてみると象の死の多くは水飲み場で沼に足を捕らわれ、溺死するため象牙は湖底や沼地に眠っているというのだ。こういう神秘的なエピソードが盛りだくさん。カプシチンスキのルポの秘訣は現地人、特に村や市場など少数だが、井戸端会議が日常的に行われている場に張り込むこと。西洋型近代社会は個人が共同体から分離され、希薄化して孤独を感じる例が多い。アフリカはまだ共同体や部族が根強い、そしてその知恵や文化を尊重し合う。私も多くの学術書や小説を読んできたが、日常の喧騒から戦争まで、アフリカを知るにはこの1冊で十分すぎると思う。ルポをルポで終わらせない”ルポ文学”。その芸術的な美しい文章と、実体験に基づく明晰かつ具体的なエピソードの数々、そして何よりカプシチンスキ自身のアフリカへの愛。西欧ではなく、同じ第三世界の人間として真摯にアフリカと向き合い、電報を打ち続けた畢生のライフワーク「黒檀」は、エキゾチックなアフリカの文学旅行に誘ってくれるだろう。ブラックアフリカの美しさに、白人ならずとも眉を顰めるに違いない。

 


“悍ましきダンツィヒ行進曲”

4「ブリキの太鼓

🇩🇪ドイツ

ギュンター・グラス

子供と大人の戦争や革命の受け取り方は全く違う。歴史を文学に取り入れる時、最も効果的で印象的な作品に仕上げるには、子供の視点を取り入れることだ。「アンネの日記」も「悪童日記」も「ペインティッド・バード」も子供が主人公でなければ、これほど有名な本にはなっていないはずなのだ。子供は未だ純粋で何色にも染まっていない。明晰な大人の思考より、直感的な子供の思考の方が生々しく、弱者へよりリアルで悍ましくスポットを当てることができる為だ。しかし一方でこれは難しい。子供の行動は本能的で大人より真理に近い描写が可能な一方、職業や地位などの人生経験は未確立、限定的な描写しか出来ないからだ。大人になりきれない子供、子供のまま育ってしまった大人、見渡してみれば現実はなんと稚拙でグロテスクだろうか。「ブリキの太鼓」はそこに一石を投じる。主人公オスカルは3歳で肉体の成長を止めて頭脳は進化した美少年、更に大人以上の暴力手段で”ドラムと金切り声でガラスを割れる能力”を持つ。要するに見た目は子供、素顔は大人の「名探偵コナン」と同じ、いやそれ以上の設定、プロットの完全勝利と言える程だ。それをピカレスク小説に用いれば、精神面の残虐な子供と肉体面の残虐な大人、両方を描写できる。オスカルの憧れはラスプーチンゲーテで対照的、要は年齢と発想が幼稚な信頼できない語り手。更にグラスの故郷と同じ、ポーランドとドイツの係争地ダンツィヒが舞台。加えてエロ・グロ・ナンセンスなエピソードの数々。玉葱を剥き、スカートを覗き、鰻がエグいことになる。とにかくインパクトある設定で、ナチ党ドイツの蛮行を炙り出す意欲作。「ブリキの太鼓」は出世作だが、グラス本人は十分に描き切れていないと考え、「ダンツィヒ3部作」として続作を書いた。ノーベル賞受賞理由の通り、遊戯と風刺に満ちた寓話的作品で、歴史の忘れられた側面を浮き彫りにする作品だ。

 


“軽音と重音の織りなすシンフォニエッタ

5「存在の耐えられない軽さ」

🇨🇿チェコ

ミラン・クンデラ

一般に恋愛小説は男女2人、又は3人の三角関係、即ち主要キャラは3人までが鉄板とされる。理由は男女2人の駆け引き、もしくは男女どちらかを巡る争奪戦がスリルを生むためだ。悲劇なら「椿姫」や「こころ」、喜劇なら「高慢と偏見」が典型例だろう。そもそもヨーロッパ文学の始祖ホメロスの詩は、トロイア戦争で男性2人が1人の女性を奪い合う、三角関係から生まれた物語だ。その点、4主人公体制、それも男女2人ペアでの小説は珍しく、男女2人がくっつけば丸く収まるので、高難度の技巧やリーダビリティが必要になる。「細雪」も「若草物語」も4人全員が主人公だが全員が女性、現状で知る限り、4人以上の男女恋愛物語を描いた文学は、この「存在の耐えられない軽さ」、もしくはダレルの「アレクサンドリア四重奏」と、「アヴィニョン五重奏」しか思い付かない。そしてどちらも文学史上傑作の誉れが高い。漫画で言えば「スラムダンク」の5主人公体制の完成度という感じ。ただ漫画では絵の迫力を利用できるが、小説で読ませるにはリズムが必要。そういう意味でこの作品は、謂わば狂詩曲的な恋愛四重奏だ。加えてそこに共産党体制の迫害下で、最大限の享楽を得んとするトマーシュ、4人の夢と現実の交錯、哲学的な人生への問いが練り上げられ、見事にメタファー上でも結実する。恋愛・哲学・文学・音楽・反体制、どれを取っても一級品の仕掛けが施されている。尚、クンデラの父はヤナーチェクに師事した著名ピアニスト、後にヤナーチェク音楽院長となり、当然クンデラも幼少から音楽の薫陶を受けて育った。そして本作の映画化時の音楽担当はヤナーチェク、これ以上ない程に見事なキャストだ。

 


“祖先と離島の黄金郷へ捧ぐ狂詩曲”

6「黄金探索者」

🇲🇺モーリシャス/🇫🇷フランス

ジャン・マリ・ギュスターヴ=ル・クレジオ

祖先はフランスのブルターニュ人(ケルト系)で、フランス革命で断髪を拒みモーリシャス移住。母はイギリス人、妻はモロッコ人、軍医の父とナイジェリアで幼少を過ごし、大学はフランス・イギリス、現地研究でタイ・メキシコ・パナマに住み、現在も韓国や中国で定期的に教鞭を取るル・クレジオ。邦訳も40近くあり、中でも唯一の3部作で一家のサーガと自伝を組み合わせたのが、「モーリシャス3部作」。その第1作が「黄金探索者」だ。美しい大洋に浮かぶ島国に生きる少年が、父の残した海賊の地図を片手に、恋と戦争と冒険を経て成長していく話。とにかく詩的文体による自然描写が素晴らしい。モーリシャスの木々の息づき、銛によるウミガメ狩りや(私は幼少時に祖父と銛突きを経験したのでその光景や興奮が蘇った)、財宝探検に胸を高鳴らせる。島を舞台にした小説は数多いが、その利点は冒険が島単体で完結すること。作家の腕にもよるが一般論として、地理的物理的に風呂敷が大きすぎるとテーマを畳みきれず、逆に小島であればあるほど文化や自然を正確に細かくリアルに伝えることができる。だから表題の黄金探索に限らず、少女との恋や家族とのエピソード、日常的な会話まで収まりの良いビルドゥングスロマンに仕上げられる。またもう1つのハイライトである、ヨーロッパへの世界大戦出兵の描写は凄惨で、穏やかに過ぎるモーリシャスとは対照的。両エピソードが並存することは、遠いアフリカ南端の植民地すら、世界史の流れとは無関係ではないことも意味する。ミクロ視点で祖先の個人史を描きながら、マクロ視点で世界史的な大事件を絡める事も忘れない。歴代ノーベル賞作家随一の国際派、ル・クレジオならではの傑作だ。

 


“灰に埋もれた世界地図の記憶”

7「庭、灰」

🇷🇸セルビア

ダニロ・キシュ

“世界”という言葉は、中々に定義が難しい。例えば”世界史”なら地理的、”世界観”なら抽象個人的、”湖底の世界”なら有限事象的と、それぞれ意味合いも物理的範囲も大きく異なる。要は虚実ともに個の人間が共有可能な概念、それが”世界”なる言葉に共通のイメージだ。「庭、灰」は、「若き日の哀しみ」、「砂時計」、とあわせて著者自身の「青春3部作」の1冊。いずれも個人と世界の認識統一を図る、ビルドゥングスロマン的な作品。「庭、灰」は鉄道員(当時のエリート)の父の後を継ぎ、世界地図よろしく架空の「バス・汽船・鉄道・飛行機交通時刻表」を完成させる物語。ユダヤ人ゆえ迫害され、幼くして失った父を故郷の知人から調べていく、すると父の本当の姿が徐々に浮かび上がるが、しかしこれも”信頼できない語り手”形式で、結局どこまで本当か分からない。従い仮定を仮定で埋めていくので、どうしても幻想や比喩が多くなる。というより異常に多く、どれも黄昏を想起する美しい描写となっている。父の記憶を探るにつれ、断片的で曖昧にならざるを得ず、描写が人→物→景色→街→時代と拡大していく。過去についての、記憶の縮小と想像補完の肥大、この対比が徐々に逆転していく。キシュはその機微の変化を詩的文体で読者に追体験させる。庭は個人の世界の外縁の象徴、灰は世界の内縁が個人に飛び火した象徴。燃え尽きた故郷の記憶を取り戻すべく、燃え上がる主人公の純粋な野心が哀愁に満ちている。個人が世界に、世界が個人に、同化していく。その手法はカズオ・イシグロと同じで、繊細な文体を以て余韻を残す、キシュもまた東欧らしい偉大な作家だ。

 


“文学は権力の対義語たりえるか?”

8「楽園への道」

🇵🇪ペルー

マリオ・バルガス=リョサ

リョサは私の1番好きな作家だ。そして嬉しいことに、近年リョサの評価は更に高まっている。ラテンアメリカ文学といえば、ガルシア=マルケスがやはり代名詞、しかし若手の中南米作家はその固定観念を嫌い、打破するために脱マジックリアリズム、即ちリアリズム作品を書こうとする。ところがその際、もう1人の南米文学の巨匠リョサが聳え立つというのだ。リョサは官能・風刺・越境的と筆幅が広い作家だが、歴史上の人物をモデルにした長編は特に傑作揃い。そして作品ごとに最適な形で、構造・文体・人称・カットバック・フラッシュバックの頻度を調整し、自在に操る。複数人視点で語ることで、多様で異なる階級・性・年齢・思想の人物を並列対比しながら描くのが目的だ。「楽園への道」も同じく、女性解放運動家・作家・社会主義者フローラ・トリスタン、印象派画家ポール・ゴーギャン、2人の生涯が交代進行する。そして2人は血縁関係、祖母トリスタンはリョサの母国ペルーの貴族、最後のアステカ皇帝モクテスマ2世の子孫に当たる。パリに移住した家族が彼女を産み、やがてゴーギャンが孫として誕生する。2人は歴史上で邂逅することこそないが、これ以上ない程に魅力的な材料だ。勿論いくら作品は材料や設定が素晴らしいとはいえ、この作品が世界文学全集に選ばれる理由は、ひとえにそれを捌くリョサの筆力あってこそ。リョサはそこに天の声として、度々”お前は…”と優しく語りかけながら登場する。これがまた理不尽な主人公たちに対し、愛おしさのアクセントを効かせている。リョサノーベル賞受賞理由は、”権力構造の地図と、個人の抵抗と反抗、そしてその敗北を鮮烈なイメージで描いた”。トリスタンは資本家と権力と男権社会に立ち向かう。ゴーギャンサマセット・モーム「月と6ペンス」のモデル。史実の通り裕福な株式仲買人から、家族も財産も捨て画家となり、タヒチで真の芸術を追い求め、生前は認められないまま逝った。2人とも有名人なので、結末も分かりきっている。それでも2人と喜怒哀楽を共にしながら、次の展開に手に汗を握らせ読み進めたら止められない。ラテンアメリカ文学史に位置付ければ、その迫力は”リアリズムの巨匠による驚異的リーダビリティを持ったマジックリアリズム”と言って良い。我ながらとんでもない作家を好きになってしまったと思う今日この頃だ。

 


反戦へー祈りとも呼べる願いを込めて”

9「戦争の悲しみ」

🇻🇳ベトナム

バオ・ニン

蟻が象に勝った。その代償は途方もない悲しみ。ベトナム戦争は世界史の流れを変え、ベトナムは勿論、加害国アメリカの社会や文学に至るまで大きく変えた。ベトナム戦争がなければ、「ライ麦畑でつかまえて」もロックフェスも生まれなかっただろう。アレクシェーヴィチの作品でも分かる通り、戦争の最大の被害者は最前線の兵士と庶民であり、決して権力者や富裕層ではない。著者バオ・ニンは戦中に兵士を経験し、戦後に庶民として再出発した為、その両方の光と陰を知っている。だから「戦争の悲しみ」は、”戦争”の話であると同時に、”戦争の齎した悲しみ”の話である。死体に群がった蝿が血の池で溺れて大量に横たわる、罠にかかり肉体欠損に泣き叫ぶ米国兵、先程まで隣にいた仲間が斃れる恐怖、こんな描写は序の口、その多くはバオ・ニン自身が戦中に見た地獄絵図だ。主人公キエンは美しきかつての恋人フォンと11年振りに再開する。しかし彼女は戦中に夥しい数のレイプを受け、身も心も変わり果てていた。キエンも戦後は悪夢に魘され続ける。そう、戦争は終わってからも、いや寧ろ終わってからの方が、地獄なのだと知る。戦後に平和が続けば、必然的に世代交代で戦争を語る者はいなくなる。日本の現政権が軍事費増大を進めることが出来るのは、戦争の怖さを語る者が絶滅危惧種になってきたからだ。他人事ではない、戦争文学も明日は我が身と捉えなければならない。そして常に反戦を意識し、蔑ろにしないことこそ、全ての戦争文学著者が願う最高の名誉となるに違いない。

 


“覗き覗かれる深淵のサーガ群”

10「アブサロム、アブサロム!

🇺🇸アメリ

ウィリアム・フォークナー

フォークナーのノーベル賞受賞理由は、”アメリカの現代小説に対する、強力かつ独創的な貢献に対して”。技法にしろ世界観にしろ、これほど無二の特徴的な作家ながら、選考委員ですら的確な表現が思い付かなかったらしい。だから曖昧な受賞理由にせざるを得なかった。池澤夏樹も言うように、フォークナーはとにかく密度が濃く、深淵を覗き見ても見渡せない。その理由は架空の街、ヨクナパトーファを中心に全著作が、何かしらの接点を持っていることにある。彼のサーガ作品は、南北戦争から著者の時代まで、あの作品の登場人物がこの作品で登場するなど、通常の1話完結式の小説ではない。通常の作家の評価は1+2+3+N…と続く等差数列式、しかしフォークナーはどの作品も関係し合う為、1x1+2x2+3x3…と指数対数的拡大を伴うサーガになる。「アブサロム、アブサロム!」はサーガの中で最も時間軸が長く、サトペン家による黒人奴隷農場経営開始、南北戦争前後、合計50年近くの街の歴史を、大学生ローザとクエンティンが語る。ただしその語りは入れ子構造になっており、2人の父母もまた友人、さらに祖父母の代まで遡り、多くの人間が証言する構造だ。所謂”意識の流れ”が複雑で、直接的で結果論の事件や感情を語るのではなく、婉曲的で過程論を長々と語る。だから一文が超長文で、これらを交錯させて”深淵”な映像的構成を形成する。ここにアメリカ南部特有の白人至上主義が齎す悲劇が、重層的に描かれている。その悲劇とは強制労働、近親相姦、強姦、遺産相続紛争、殺人、従軍、戦争、人種差別、とにかく悍ましさのオンパレード。因習的な南部の白人一族の栄枯盛衰は、NY中心の華々しい北部アメリカ史とは異なる。歴史に無視されてきた者たちは、文学でなら蘇らせることができる。フォークナーはその試みに成功した。だからその後継者は先進的で都会主義の世界史の勝者の西欧やアメリカ文学でなく、専らラテンアメリカや東欧、ひいてはアジア等の第三世界に現れた。ガルシア=マルケス莫言大江健三郎イサベル・アジェンデ、ミロラド・パヴィッチ、幾らでも大家の名前を挙げることが出来る。フォークナー以前と以後で世界文学史は一変すると言われるが、私も同感だ。

 


“精霊が語るもう1つの9.11事件”

11「精霊たちの家」

🇨🇱チリ

イザベル・アジェンデ

9.11事件といえば多くの人が、2001年アメリ同時多発テロを思い浮かべるだろう。しかしこのテロ以前では1973年に起きた、チリ大統領官邸モネダ宮の爆撃、ピノチェト将軍の軍事クーデターを意味した。サルバドール・アジェンデ大統領は爆殺、姪のイサベルはベネズエラに亡命し、祖国への愛と政治への糾弾を文学で訴える。それが「百年の孤独」と並ぶ、南米マジックリアリズムの傑作「精霊たちの家」だ。予知能力者クラーラは絶世の美女の姉ローサが死に、その屍が解剖され弄ばれて以降、閉口のまま暮らす。やがて姉の元婚約者と結婚し、精霊が棲む家で娘ブランカが生まれ、孫娘アルバが生まれ、過酷な運命を試されていく。クラーラの能力や精霊のご加護が失われていく様は、アジェンデ自身の迫害の光景と重なる。100年に及び一族が逞しく都会や国内外を動き続ける点で、神話的な村の男権社会な「百年の孤独」とは似て非なる構成だ。アジェンデは短編の名手でもあり、抜群のストーリーテラーで、庶民や童話も多く手掛け映画脚本家としても有名。本作もその特徴が随所に見られ、特に伏線回収やキャラ作りが素晴らしい。登場人物は不器用で喜怒哀楽も激しく、敵味方問わず愛おしい一面が絶えない。農村と都市、異性愛と同性愛、親と子、二項対立を鮮やかに描き見事にラストを迎える。”文学の冒険”を愉しむなら、是非お勧めしたい1冊だ。

 


“炭素で錆びれた鉄の逆襲”

12「鉄の時代」

🇿🇦南アフリカ

ジョン・マクスウェル・クッツェー

古代から20世紀までを1化学元素記号で表すと、何千年もの昔から”Fe”即ち鉄の時代だという。20世紀以降は現在に至るまでは石油科学文明中心、”C”即ち炭素の時代だという。紀元前にヒッタイトが鉄を武器に古代オリエントを制した。表題の”鉄の時代”とは古代ギリシアの”青銅時代”以後、ドイツ宰相ビスマルク的な鉄血に支配された、暴力・差別・支配主義が続いたことを意味する。クッツェー作品の主人公はどれも、様々な異端者と欠落者が理不尽な社会において、更に加速しながら没落し、落ちる所まで落ちていく様を冷静に簡潔な文体で描く。更に彼の作品はほぼ全てが古典をリライトし、且つ成功させている点で破格なのだ。「鉄の時代」もアパルトヘイトをマイノリティ目線で、じっくり深く描いた作品である。主人公は癌で死を目前にしたラテン語教師の老婆ミセス・カレン。彼と若い黒人ホームレスの男が出会い、施し合う歪な共生関係を築く。どんな差別であれ単純な二項対立ではなく、大きな差別の中に小さな差別がある。アパルトヘイトで言えば、黒人と白人の対立、白人内の格差、カラードと黒人の格差、黒人による黒人の格差、が存在する。だから白人と黒人が仲直りした今でも、形骸化した格差が南アには残り、ヨハネスブルグは殺人件数率が世界トップクラスで多い。クッツェーは差別という抽象的な差別構造を、マイノリティ目線で突き詰めることで、暴こうとした。だから彼の文体は固い、あくまで感情を排して現実的に冷徹を通す。作家にも色々な才能の形がある。クッツェーは”硬質なダイヤモンドがギラリと光る様な才能”、とでも言おうか。最後の”鉄の時代”から、”最初の”炭素の時代”へ、人類は果たして格差や差別の問題を克服できるか?ノーベル賞受賞後、”北半球の文学”に黙殺されてきた、”南半球の文学”を築くべく、現在はオーストラリアと南米を拠点に、変わることのない異端者目線を研ぎ澄まし、鋭く固い筆に力を込めて活動を続けている。

 


“澄み渡るケニア大地の美しき日々

13「アフリカの日々」

🇩🇰デンマーク

イサク・ディネセン

クッツェー「鉄の時代」は、入植者の白人と原住民の黒人が衝突した異文化摩擦の例だ。対して「アフリカの日々」は異文化交流が成功した例だ。勿論、前者は歴史過程の一般論の多数派、後者は少数派という違いはある。少なくとも21世紀の所謂グローバル化時代になるまで、ハンチントンの言う様に「文明の衝突」は続いていた。そんな中、何故ディネセンは異文化理解に成功したのか?、まず彼女は1914年から1931年の17年にかけて、アフリカはケニアにコーヒー農場を建てて経営する。発端はサファリ好きのフィンランドの男爵と結婚し、当時イギリス領のケニアに白羽が立ったため、ケニアが選ばれた。しかし夫が梅毒にかかりやむなく帰国、更に関係悪化で離婚、独身となった彼女はケニアの農園に残り、独り身で現地社会に溶け込まざるを得なくなった。これが異文化理解に成功した理由の1つだろう。またケニアは白人入植者が少なく、偶然にも現地で親交を結ぶイギリス貴族デニスは、自由と放浪を好むタイプだった。2人はキクユ族・マサイ族・ソマリ族とも仲良くなり、西欧式治療や学校設立など積極的に支持する。ケニア人は農地経営をする上で取引相手でもあり、互いに自然と受け入れ合っていく。そう、時間を確保し偏見を取り払えば、異文化理解は充分に可能なのだ。しかし農場経営は上手くいかず破産する、勿論ここでも彼女は現地のアフリカ人に八つ当たりはしない。話はシンプルだが、この偏見のない観察力と豊かな感性を持って、自身の不幸の記述を最小限に留め、美しい自然と人の営みを描ききる。そこから伝わるのはケニアへの愛、本当に幸せそうな日々の記録だ。私もこんな”アフリカの日々”を送れるなら、体験したいと憧れを持った。

 


“燃えない本と死なない巨匠”

14「巨匠とマルガリータ

🇺🇦ウクライナ

ミハイル・ブルガーコフ

世界史上最大のベストセラーをご存知だろうか?、言うまでもなく「聖書」で、発行部数は何百億部とも噂される。次が「コーラン」であり聖典はやはり強い。多く読まれる本は歴史も長い。そして読者が多いという前提で、文学における引用も必然的に多くなる。これは特に宗教国家では多く見られ、ドストエフスキーなど革命前のロシアでは特に多かった。だが社会主義化した後は、マルクスの言葉を借りる様に、”宗教はアヘン”として迫害を受け、国家礼賛の人民文学を奨励された。当然、作家は書きたいものが書けず反発する。だから国家を婉曲的に批判し、宗教を裏のモチーフにした。その代表的な作家がブルガーコフで、彼がロシア支配下ウクライナの医者だったことは、偶然ではないだろう。実際、当時ロシアで発禁とされた。舞台は社会主義の聖地モスクワ、春の北国にも関わらず灼熱の太陽が照り、悪魔の一族が降誕して街を破壊し尽くす。SF、漫画、喜劇、悲劇、ミステリ、シュールリアリズム、風刺、魔術、小説内演劇、宗教、更にキリスト復活。これらの経糸を、ソヴィエト政府批判という緯糸に縫い合わせ、虚飾に驕る内憂外患の政府を揶揄する。主人公の巨匠はこの奇怪な物語を小説内小説として語り、妻マルガリータはそのサポート役。更にイエスを処刑したローマ帝国ユダヤ総督ポンティウス・ピラトゥスの末路が交代進行する。断頭し転がる首、チャシャ猫的な黒猫、悪魔の舞踏会、空飛ぶ魔女、札束の雨。医者にして文化人のブルガーコフは、これらの奇怪な事件をソ連の非科学的な政策に見立て、社会主義の虚構を暴く。ドイツ詩人ハイネは”本を燃やす者は人も燃やす”と言う。そして巨匠も語る、”原稿は燃えないものだ”、そして”読者よ私に続け”と。ブルガーコフは文学の力を信じていた。権力が人を燃やしても本は燃えない、本が燃えても歴史は人を死なせない。何千年と燃やされ迫害された、「聖書」や「コーラン」が今も語り継がれている事が、それこそ何よりの証明だろう。

 


“未開あるいは冥界のプレミアムフライデー

15「フライデーあるいは太平洋の冥界」

🇫🇷フランス

ミシェル・トゥルニエ

水場を航行する言葉は英語で”クルーズ”だ。語源は”クロス”即ち十字架で、ここから”大海を横切る”という意味が生まれた。デフォー「ロビンソン・クルーソー」もまたクルーズの物語、だからロビンソンの”クルーズ”がそのまま表題を想起する。「フライデーあるいは太平洋の冥界」は、この「ロビンソン・クルーソー」の脇役フライデーにスポットを当てる作品。主人公ロビンソンは無人島漂着により未開文明に接触し、助けた1人の捕虜をフライデーと名づけ、共に無人島生活をサバイバルする。実は現代世界文学ではロビンソンよりこのフライデーに着目し、リライトした作品の方が多い。例えばクッツェー「敵あるいはフォー」、ルッツ・ザイラー「クルーゾー」、「ガリバー旅行記」などである。要は文明と未開の邂逅をテーマにした小説の嚆矢、コンラッド「闇の奥」等は実在の地理を用いた派生作と言える。このフライデー的未開を描いた中でも、池澤夏樹が最も成功した例と讃える作品が本作だ。無人島サバイバルは魅力的な設定で、何より近代文明の偏見が排除され、生存本能たる哲学と人間的な学びによる成長、これらが可視化されるのだ。更にトゥルニエはこれをフライデー側から再構築し、冷静に分析を重ねる。文明と未開を象徴する2人が綺麗に二項対立し、本家とは異なる結末を迎える。失ったからこそ得られるもの、得られたからこそ失うもの。これらを先進国と途上国、効率社会と伝統社会に置き換えれば、現代にも通ずるテーマだ。

 


“2500年を経たトロイア王女の再発掘”

16「カッサンドラ」

🇩🇪ドイツ

クリスタ・ヴォルフ

トロイア戦争は伝説と思われていた。しかしドイツの実業家シュリーマンは、幼い頃にギリシア神話を読んでトロイア遺跡の存在を確信し、貿易成金として築いた莫大な資産を遺跡探索に費やし、遂にトルコのダーダネルス海峡付近でトロイア遺跡発掘に成功した。ドイツは古代文明の有名な国に植民地を持っていなかったが、それ以降も古代ギリシアやオリエント考古学の研究は盛んで、ベルリン5大博物館にも展示が非常に多い。しかし冷戦で東西ドイツは分断され、学問も経済も開放的になった西ドイツとは対照的に、東ドイツは男性中心の管理前提で学問軽視、徹底した国家警察の権力にねじ伏せられてきた。だから東ドイツ物理学者の名指導者アンゲラ・メルケルが、東西統一後に長期政権を維持したことは、ドイツ史上でも非常に意味があるのだ。この様な背景を考えれば、東ドイツ出身では珍しい女性作家だったヴォルフが、トロイア戦争で黙殺された女性予言者カッサンドラに注目するのは当然だろう。まずカッサンドラはギリシア神話においてトロイア側の人間、即ちギリシアの敵なのである。ご存知の通りヨーロッパ知識人は、ヨーロッパ文明の源流を古代ギリシアに求める。従ってこのトロイア戦争叙事詩イリアス」のハイライトは、当然ギリシアに集中するのが一般的だった。カッサンドラは「イリアス」においてトロイア王女で非戦闘員の脇役、しかし太陽神アポロンへ愛の献身を代償に予言者となった。その力でトロイアの木馬に隠れたギリシア人が侵入し、やがて母国が滅びることで知る。当然トロイアの仲間に予知の結果を伝えるが、戦士の主役はあくまで男性、カッサンドラの言葉など誰も信じてくれない。実はカッサンドラはアポロンへの愛を拒否したため、彼女の言葉を誰も信じない懲罰を受けたのだ。この心情を1人称で憤怒と激昂の言葉を散りばめながら、ラストまで持っていく。男女不平等社会を糾弾した作品であることは言うまでもない。それを従来の神話とは異なる解釈で、ナショナリズムに担がれがちな民族叙事詩の敵国の女性非戦闘員視点で描く。マーガレット・アトウッド「ペネロピアド」、パット・バーカー「女たちの沈黙」、アン・カーソン「赤の自伝」など、近年ギリシア神話はリライトと共に女性やマイノリティの面から、新解釈を与える傑作が続々と出現している。その嚆矢がヴォルフであり、サルトル的な深遠さで持って、不条理世界を浮き彫りにする。メルケル政権が誕生し成功したのも、ヴォルフの貢献が多少なり影響しているのかもしれない。

 


灯台下暗しの長い1日”

17「灯台へ

🇬🇧イギリス

ヴァージニア・ウルフ

20世紀を代表する作家を3人選べ、と有識者に問えば多くの人が下記3名を挙げると思われる。ジェイムズ・ジョイスフランツ・カフカマルセル・プルースト、各人とも文学に革新的な手法やテーマを遺したからだ。ジョイスは”意識の流れ”で文体面を、カフカは”不条理文学”でテーマ面を、プルーストは”無意思的記憶”で構造面を、一変させた。このうちジョイスの”意識の流れ”文体を発展させ、プルーストの記憶によるフラッシュバックとカットバックを多用したのがウルフだった。多声的で時系列もジョイスより複雑、現実世界の時間推移は2日程度だが、回想を頻繁に挿入することで、スコットランドのスカイ島の灯台付近で暮らした一家の別荘生活を、断片的に紡ぎ重ねていく。ストーリーは3部構成、主役はほぼラムジー家8人の住人。第1章は一家のホームパーティーのため、最も登場人物が多く客人として詩人や学生など、一家に縁ある人々も交え互いの意識をスイッチさせながら描いていく。第2章は非常に短く第1章から10年後の設定で、第一次世界大戦後の変化を年表の様に簡潔に読者に経過報告する。第3章は再び変化を遂げた者たちが灯台に再集結、ここで10年前と比べた喪失と久々の再開に、各々の複雑な気持ちをぶつけながら過去と向き合う。ウルフは水場が似合う作家。「波」も舞台が海辺で文体構造もほぼ同じだが、技巧を中心に描写している。対して「灯台へ」はストーリー自体も面白く、家族のエピソードに世界大戦の激動を挟んだり、歴史的事件を陰に陽に描いたりする。天の声もなく人間関係が等しく描かれるため、その点でクンデラやフォークナーに似ている。しかしその視点の切り替え人数と頻度が非常に多く、一読して実験的作風だと分かる。尚且つ叙情性と展開の面白さ、キャラ立ちとリズムと読者の想像力を掻き立てる点で、この試みは各種の特徴がバランス良くまとまっている。プルーストジョイスもフォークナーも頑張れば何とかまだ映像化可能だが、「灯台へ」はほぼ全編が過去の回想になるため映像化不可だろう、仮に出来たとしてもイベントもなく時制も複雑で理解できなくなる。その意味で「灯台へ」は小説の極致、文学でしか描けない作品だと言える。

 


“試してみましたクーデタ!”

18「クーデタ」

🇺🇸アメリ

ジョン・アップダイク

小説はどれほど自伝的でも、創作物である限りフィクション、即ち架空の物語である。そもそも1人の人間が語る以上、科学的であろうと歴史に基づいていようと、どうしても主観的な想像にならざるを得ない。作家の創造において、最大の設定は物理的にはSFで、社会的には国家が最大の設定である。アップダイクは「クーデタ」でその実験を試み、且つ成功している。現実に限りなく近いモデルが存在しながら、架空の国家、架空の大統領、架空の地理、架空の自然、架空の人口、架空の歴史、架空の国際関係、架空の政治経済政策。実在しないからこそバイアスを排除し、作家も読者も概して客観的な見方を獲得できる。アップダイクはアフリカの架空のイスラム国家クシュに細かい設定を設け(恐らくモデルは南スーダン)、母国の超大国アメリカとの国際関係を描くことで、アメリカが国際社会でどう見られているのか分析した訳だ。鍵になるのは4人の妻と1人の愛人、というのもイスラム圏では4人まで最大が許されるからだ。そして5人とも出自や人種が悉く違う。愛人は地元部族の女、妻4人は年上の姉御肌の妻、大統領のアメリカ留学時の同級生のエリート妻、酋長の娘で体育会系の妻、綺麗な若妻、という感じ。タイトルからもクーデタが起きると分かるので、重要なのはクーデタの結果ではなく過程。即ち反骨精神を持つ部下と抵抗する民衆に地位を追われ、クーデタで大統領は失脚する過程、これを詳らかにする試みには架空国家の方がシミュレーションしやすい。そして架空国家と分かっていながらリアリティがある。アフリカのみならず冷戦期のイランやベトナム等は、クーデタの代わりに革命や戦争が起こり、この小説と同じ道を辿った典型例だ。そして心なしか衰退途上国となりつつある日本も、近い将来アップダイクの描く世界が現実になりそうに思えてならない。

 


“鼻唄ヒートで胸打つビート!”

19「オン・ザ・ロード

🇺🇸アメリ

ジャック・ケルアック

車に乗ってドライブしながら、お喋りする様子を書いただけの小説。有り体に言えば「オン・ザ・ロード」はそんな話、伏線回収も緻密なストーリーもあったものではない。しかしこのケルアックの本はそれゆえに伝説を築きいた。池澤夏樹も言う様に、アメコミと対照的にアメリカ文学の特徴は”現実逃避”にある。「ライ麦畑でつかまえて」、「武器よさらば」、「怒りの葡萄」、ピンチョン各作品、などなど。しかも主人公全員が”逃げる男”という共通点がある。”アメリカン・ドリーム”という言葉がある様に、建国以来アメリカは自国の歴史に行き詰まった移民が構成する国である。本質的に逃げて来た人々なのだ、だから逃げることに恥も恐れも持っていない。確かに南部黒人奴隷の様に強制連行された形の移民もいる、しかしアメリカ史では圧倒的に白人が主役であり、これは最近までアメリカ文学史も同様だった。要するに西部開拓が形を変えて、ヒッピー的な現実逃避とビートニク文学とが結び付き、ロードノベルに昇華した、その代表例が「オン・ザ・ロード」である。サルはコロンビア大学を中退したが、それでもエリートで周りより何でも叶う環境ながらそれを捨てる。ディーンは父に捨てられ盗みで食い繋いだ末の少年院上がりの不良、加えて酒と女と薬物に見境がないまま大人になった。似て非なる友人同士の2人の主人公は、意気投合し行くあてもないアメリカ大陸ドライブ周遊を決行する。ジャングルに砂漠に断崖絶壁、インディアンに女にあらゆる悪事との邂逅。NY〜メキシコシティまで途中で何度も折り返しながらの長旅、残念ながら無計画で無謀なこの旅には明るい未来はない。それでも多くの人間が、特に若者がこんな旅をしたいと思った、したいと思わせたその冒険自体と、知性のギャップがある2人の軽妙で洒脱な会話に魅了される。ドライブ感覚で鼻唄でも口ずさみながら、流れる風景のような文章を楽しみたい作品だ。

 


耳をすませばソングライン”

20「パタゴニア

🇬🇧イギリス

ブルース・チャトウィン

紀行文学は外国人が書くことが多い。理由は土着人が普通と感じる文化や伝統も、外国人からするとエキゾチックな秘境と感じられ、売れるからである。メジャーな地域の紀行文学は実質ロードノベルだが、マイナーな地域となると秘境文学になる印象は強い。主人公にして筆者チャトウィンが、祖母の家にあるパタゴニアの古代生物ミロドンの化石標本を見て、実際にこの地をトレッキングするという粗筋、この時点で冒険の匂いがしてとても良い。見所は南米の雄大な自然は勿論、現地人との触れ合いと文化、パナマ運河開鑿以前の航路パタゴニアの世界史的意義、ガラパゴス体験とはまた違うダーウィン進化論、音楽的なリズムや文体の芸術性、更にオオナマケモノなど絶滅した動物の紹介など、魅力的な題材が散りばめられている。南米の珍しい動植物を虚実ない混ぜで語るエキゾチックな博物的文学は、アルゼンチンの巨匠ボルヘスコルタサルも得意としており、パタゴニアに運命的な通底観念を感じてしまう。私もパタゴニア散策の経験があるので、巨大な氷河や満点の星空、南極大陸に最も近い世界最南端の岬、化石の森や白人とインディオとの邂逅の歴史など、思わず在りし日の南米縦断を思い出してしまった。縦長のチリとアルゼンチンの中でも首都から大きく南に位置するパタゴニアチャトウィンもカプシチンスキも、母国とは大きく異なる文化を持つ大陸の秘境を歩いた。 2人の共通点は現地人と直接交流して練り上げた芸術的な文章、相違点はカプシチンスキはジャーナリスト目線、チャトウィンは旅人目線で異国を観察したこと。「パタゴニア」という魅力的な地を、正に一歩ずつ踏み締めていく様に、ページをめくる楽しみがある紀行文学だ。

 


“若き宗教史家のExotic & Platonicな恋”

21「マイトレイ」

🇷🇴ルーマニア

ミルチャ・エリアーデ

ルーマニアが誇る20世紀随一のユダヤ系知識人、「世界宗教史」で有名な世界的宗教学者ミルチャ・エリアーデ、彼の実体験を基に描かれたのが青春恋愛小説「マイトレイ」だ。学徒として宗教に興味を持つうち、東洋の神秘とも言えるインドの哲学と宗教を中心にのめり込み、遂にインド留学した先で土着の娘と恋に落ちたという話。エリアーデは小説も多く書いているが、殆どがその宗教知識を活かした寓話や幻想文学で、半自伝、しかも恋愛文学は珍しい。イギリスのノーベル賞作家キプリングやフランス作家ヴェルヌに代表するように、西欧列強が帝国主義的目線で旅情豊かな海外を舞台にすることは、当時の流行でもあった。キプリングもヴェルヌも概して教養小説や冒険小説と、大衆的なエンタメ要素が強く自伝要素は少ない。これは彼らが連載誌で人気作家となり、専業作家として経済的な成功も必要としていたためだろう。一方で「マイトレイ」は素朴で派手な要素がなく、その分インドの美しい自然描写や恋愛が際立ち、実体験も伴って強い心情描写に訴えてくる。主人公はルーマニアの留学生、インド研究のため渡印するがホームステイ先の美しい娘に恋する。しかしその行為は世話になっていたホストを裏切る形となり、激怒され失意のうちに2人は永久に離別する。要するに異文化衝突が愛を引き裂くが、マイトレイの描写は少女ながら神話的でエロティック、それこそインドの女神カーリーのようで、最初からどことなく破局の予感を醸しており、それでも続きが気になってしまう。尚、この話には後日談があり、エリアーデはモデルの少女を匿名で書いて、帰国後ルーマニアで執筆して出版したが、何十年後に翻訳されインドで彼女の目にも留まったという。「私小説は小説より奇なり」と感じてしまう。

 


ネバーランドユートピア

22「アルトゥーロの島」

🇮🇹イタリア

エルサ・モランテ

思春期の短くも複雑な心境は文学の格好の題材だ。一般的には学校モノや教師と生徒の禁断の恋などが多く、なんなら所謂TVドラマや少女マンガが最も人口に膾炙した例と言える。このテーマを実験小説として神話的に人工造形し、少年の思春期の葛藤と恋慕を巧みに描いたのが「アルトゥーロの島」だ。まず舞台は学校や職場ではない、何故なら大衆性と共感を排除しなければ、思春期の人格形成を暴くことができないから。舞台は南イタリア孤島、設定は少年1人で独占中のやりたい放題の楽園の島、そこに不在がちの父が自分と2歳違いの若妻と共に帰郷、同年代の魅力的な年上女性が唐突に母になる、しかし近親相姦となる禁断の恋は許されない。少年アルトゥーロは理性と欲望の狭間で葛藤する、しかも若妻母の方から積極的に子供として可愛がられるのだから困る。思春期ゆえの性への好奇心がぶつかり、頭ではダメと分かっていても、身体は抑制が効かない、しかも敬愛する父親の視線も気にしなければならない、基本的に島には3人しか居ないので、必然的に心理戦になる。正にフロイトオイディプス・コンプレックスを具現化したと言える。そもそも近親相姦や父親殺しは世界共通の神話要素、神秘的なのは当然で、だからこそ「カラマーゾフの兄弟」も中世ヨーロッパ王侯貴族の”青い血”や血友病も、神秘性を高めるとして歴史に名を残しているのだ。本作にミステリ要素はないが、”神話版クローズドサークル”と考えていもいい。母性と父性と異性と知性の葛藤の中でフラつきながら大人の階段を駆け上がる。更には腹違いの弟も誕生し、1人きりの楽園にはもう戻れない。井の中の蛙だった少年が徐々に世界を認識していく。神話世界の登場人物が大人になる。非現実的な設定ながらも、その過程と結末を余す所なく描いた傑作だ。

 


“広く深い海から狭く浅い浮島を眺める”

23「サルガッソーの広い海」

🇩🇲ドミニカ国

ジーン・リース

西洋古典をリライトする試みが近年、非常に多くなってきている。トリニダード・トバゴ初代大統領にして歴史学者、エリック・ウィリアムズが「資本主義と奴隷制」で喝破した通り、中でも島国ばかりで面積も小さく、世界史でもほぼ無視されてきた地域が、他でもないカリブ海だ。今日でこそナイポールやコンデやオルコットなど突出した文学を送り出しているが、その先駆的作品が「サルガッソーの広い海」だ。著者はドミニカ国出身のイギリス作家ジーン・リースで、シャーロット・ブロンテの名作「ジェイン・エア」のドミニカ出身の超脇役にスポットを当て、カリブの無風地帯サルガッソー海を渡る前日譚となっている。「ジェイン・エア」では僅かな登場しかない彼女を、なぜブロンテは主役に抜擢したのか?、ブロンテの生きた当時のイギリスは既に産業革命の黎明期、帝国主義として所謂”近代世界システム”を構築し、資本主義輸出経済で帝国主義の先頭を走っていた。日本の高校世界史の教科書を読めば分かる通り、カリブ国家はその超周辺部として記述すらなく、この無視度合いは蔑ろにされてきた脇役の姿と重なる。つまりリースは非道な大西洋奴隷貿易の怨嗟を、虐げられたドミニカ国の歴史と、由緒ある英文学の名作中の脇役に見立て、しかも高いレベルの作品に仕上げる事で、イギリス古典文学に英文学で持って”復讐”に成功している。だから「ジェイン・エア」を読む者は、「サルガッソーの広い海」も読まなければならない。前者がイギリス側の持つカリブ国家の”高慢と偏見”を、後者がカリブ国家側の持つ西欧列強への”矜持と伝統”を、相互補完すべきことだと教えてくれる。当時の情報量を鑑みれば、ブロンテはカリブ海に無知だったろう、それは仕方がない。しかしグローバル化の進んだ現代は、それこそ文学や旅や学校でいくらでも調べられる。現代人は他国の歴史に無知でいることは、”無知の恥”とされる時代に生きているし、その様に生きなければならない。強者の歴史だけが世界史や文化を淘汰してはならない。なんといっても文学は弱者の強い味方なのだから。

 


“現実逃避したくなる美しきお年頃”

24「アデン、アラビア」

🇫🇷フランス

ポール・ニザン

“僕は20歳だった。それが人生で最も美しい時だなんて、誰にも言わせない。”、やはり素晴らしい書き出しだ。既に冒頭から悲嘆と残酷な結末を予感させ、なお且つ美しさの余韻を残し若者を礼賛する狂詩曲の残響を感じさせる。ニザン自身も兵役で30代と若くして死んだ。パリの超エリート大学のしかも特待生で、サルトル等の著名人とも学生から交友があり、だから本書のフランス初版はサルトルが熱く長い前書きを物した。内容はシンプルで近代西洋文明の機械的な資本主義の不条理に辟易し、アラビアはアデンに航海で現実逃避するだけの話。しかしその旅路で内省的に語られる、というより自身と読者に問う形で次々と繰り出される、難解かつ抽象的で思弁的な哲学語りが見所。「アメリカの鳥」と同じく日本でも海外でも、こういう本は最近は殆ど見かけなくなった。分かりやすく言えば”考えるより感じる作品”で、そういう意味でも価値がある。従って言葉にして感想を述べるのは中々に難しい。パリを出てアデンで新しく目にした光景は、フランスから見れば”未開と野蛮の地”だった。しかしニザンが夢見た楽園はアデンにはなく、奴隷や小汚い貧民と暑苦しい禿山ばかり、失望した先に向かうジブチでは更に劣悪な、スルタンに媚びるだけの社会を目にして絶望してしまう。こうしてフランスに帰国し共産党入党で共産主義者へ、しかしヒトラーソ連に絶望して世界大戦に身を任せ35歳の若さで戦死した。革命とデモの先進国、フランスのエリートらしい義憤を撒き散らす姿は、文学らしいテーマと激動の自伝を儚く美しく伝えている。

 


雨に唄えば名誉の戦場”

25「名誉の戦場」

🇫🇷フランス

ジャン・ルオー

一般に戦争文学は悲劇が多く、喜劇と呼べる作品は少ない。これは多くの方に賛同頂けると思う。文学は当然アクション映画でもなく、戦争礼賛の名作は私も見たことがない。しかし「名誉の戦場」は戦争をメインに扱いながらも喜劇である。正確には今を明るく過ごす少年と家庭を描くが、その細部に過去の戦争に翻弄される描写を上手く織り込んでいる点が特徴的で、しかもその断片を明かしていく手法が非常に上手い。無名のキオスク店員ながら、ゴンクール賞受賞も頷けるデビュー作。ただその分散具合が細部に数多く配置され過ぎているので、初読では仕組みが分かりにくいかもしれない。逆に言えば再読するほど味が出る作品とも言える。祖母や祖父の朗らかな日常が子供の主人公を通して描かれ、現在から第一次世界大戦の悲劇が浮かび上がる。ロワールの長閑な田舎ですら、かつて血の川が流れ戦場になったこと、明るい現在と暗い過去が同じ場所やイメージで比較描写され、悲しい戦争の時代に遡っていく。雨やおもちゃ、愛車や森林、時代が変われば人はその扱い方や見方も変わり、ルオーはそれらを意識して絶妙に配置させ、見事に伏線回収する。「名誉の戦場」は本国フランス語版では5部作、つまり家族史としてルオーが書きたかったテーマは、単純計算で5倍の量に及んだことになる。残念ながら邦訳はなく、続編の詳細は分からないが、ノーベル賞作家マルタン・デュ・ガール「チボー家の人々」の様な長編にも感じる。だとすれば、フランスらしい家族を軸にした純文学、最近で言えばこちらもノーベル賞作家アニー・エルノーの様に、個人から社会を描く由緒ある社会派私小説の傑作と言える。

 


“冒険心と逃避心ー出航の座礁と航海の後悔”

26「ロード・ジム」

🇬🇧イギリス/🇵🇱ポーランド/🇺🇦ウクライナ

ジョゼフ・コンラッド

コンラッド英語圏の代表的な作家である、と同時にウクライナ出身でポーランドに移住した特異な経歴も持つ。従ってその文学観は同時代のキプリング等とは異なり、所謂オリエンタリズムに囚われない、独自の世界を作り上げている。加えて作家以前には船乗りとして世界中を巡っており、細かい航海技術や地理誌の蘊蓄に溢れるエキゾチックな冒険譚が魅力、英文学でも類例がない作家の怒涛の展開が待つ作品が「ロード・ジム」だ。まずアラビア湾で乗船が嵐で座礁し、主人公ジムは救命ボートに1人だけ乗り込み、仲間全員を見捨てた形でアジアの未開文明の地に流れ着く。自分以外の800人は全滅しており、その責任を問われ航海士の地位を剥奪される。ジムは壮絶な自責の念に駆られながらも、何とか港町を転々としながら生き延びる。やがてジャングルの奥地で部族間抗争を指揮して勝利、白い肌のシャーマン的な英雄に崇め祀られ、部族の美少女との結婚にまで至る。しかし些細なことから失脚し、裏切り者として処刑されてしまう。粗筋だけ見れば起伏のある派手なストーリーに目に行く、海洋冒険小説の雰囲気が漂う。しかしジムは例え原住民の地で大出世しようと、常に過去の卑怯な自分に対して告解と煩悩と後悔と罪悪を全編通して語り続ける。つまり冒険というより逃避行の小説なのだ。人間というのは追い詰められた時に本性が出る。一度は全てを失ったジムだが、奇跡的にまた現地の英雄に成り上がる。ここでジムが有頂点にならずに暗い過去を葬らないまま苦悩するから、「ロード・ジム」は陳腐なディズニー映画に陥らず、きちんと人間臭い純文学に戻ってくるのだ。確かに世界中の海と東南アジアを舞台に渡るマクロな設定も魅力的だ。しかし軽蔑と失敗から立ち直ろうと足掻くミクロの心理はより丁寧に描かれている。前者と後者のバランスが取れているから、コンラッドは大衆作家としても成功したし、古典として今も語り継がれる偉大な作家としても名を残している。「ロード・ジム」は特にその文学観がよく伝わる作品に仕上がっている。

 


“お給仕人は信頼できる信頼できない語り手”

27「わたしは英国王に給仕した」

🇨🇿チェコ

ボフミル・フラバル

冷戦期以降で代表的なチェコの作家は3人いるが、いずれも共産党社会を揶揄する作品を書いて弾圧を受けている。上述のミラン・クンデラはフランスへ亡命を余儀なくされ、民主化後も母国に戻らず今もフランスで活動している。同じく楽器に明るかったヨゼフ・シュクボレツキーもカナダに亡命、しかし民主化後にはチェコに戻った。一方「わたしは英国王に給仕した」を書いたフラバルは、チェコに残り続け母国で出版を続けた作家だ。”これからする話を聞いてほしいんだ”、とシュールでユーモラスな語り始めを繰り返しながら、プラハで給仕人として仕事を始め、紆余曲折を経ながら億万長者になる話。この”紆余曲折”の中には嘘くさい話も含まれていて、全体的に所謂”信頼できない語り手”の作品となっている。そもそもまずタイトルが大嘘なのだ。主人公のジーチェは英国王には給仕していない。確かにパリの高級ホテルには勤めたし、エチオピア皇帝の歓迎式でも皇帝の寵愛を受ける。しかし題名にもある肝心の英国王には給仕しない。代わりにナチ党ドイツの影がチラつき始め、否応なく世界大戦の激動に巻き込まれていく。面白いことにカズオ・イシグロブッカー賞受賞作、「日の名残り」と設定がよく似ている。同じ”信頼できない語り手”が主人公で、その主人公スティーブンソンも名家の執事だが、仕えた当主はナチに加担してしまい没落して、別のアメリカ出身のヤンキー当主が代わりにやってくる。基本的に文学は主人公が主体的に動くが、執事や給仕人は本質的に仕える主人ありきの能動的な職種だ。そんな職業だからこそ描けるユーモアやシュールを、フラバルもイシグロも良く理解しているし、小説への応用も上手い。この小説が悲劇であり喜劇でもある、ビルドゥングスロマンでありピカレスクロマンでもある、という絶妙な位置付けなのもそこに起因するのだと思う。波瀾万丈の人生を経て、最後にジーチェは故郷に戻る、亡命したクンデラやシュクボレツキーとは異なる哀愁を漂わせていると感じることだろう。

 


“見えない都市に目を凝らす”

28「見えない都市」

🇮🇹イタリア

イタロ・カルヴィーノ

この全集にも4人とかなり多くノミネートしている通り、意外と個性的な作家が多いイタリア。その豊潤な歴史文化遺産が刺激を与えるのか、純作家よりも学者出身のエーコやタブッキが有名な作家だったりする。中でもカルヴィーノは独自の構造と文体で寓意的作品を書くことで知られる。「見えない都市」も紙芝居のような作風で、コラージュ感覚で章ごとに独立しており、どこから読んでも楽しめる。加えてチンギス・ハンに謁見したマルコ・ポーロが、55の架空都市の話を聞かせるという設定もユニークだ。幻想的な都市ばかりで嘘だと分かるが、弁舌が巧みなので信じてしまいそうになる、実際ハンも最初こそ懐疑的だが徐々に引き込まれていくのだ。察しの通りカルヴィーノは古典の造詣が深く、他の作品も漏れなく古典引用と現代風刺がセットになっていることが多い。エーコもTV論を書いているが、カルヴィーノもメディアに詳しい。正しくハンに都市を語るマルコは、このメディア的な切り貼りを駆使し誇張して報告している。今も昔もフェイクニュースはあった訳だ。何より最近の研究ではマルコの記述は中国の年代史と不一致な点が多く、そもそも実在の人物ではないと指摘されている程なのだ。逆に言えばこの”見えない都市伝説”は、文学としては含みを持たせることができるので、格好の材料となり得る。例えば当時のヨーロッパではマーメイド、マンドラゴラ、ユニコーンも信じられていた。これを現代に言い換えれば、地球温暖化や昆虫食に新型コロナワクチン摂取やカルト集団など、科学文明がいかに進歩しようと、大衆が信じ込んでしまうきな臭い話には枚挙に暇がない。中世だからと嗤うこと勿れ。冗談の様な架空都市の話も、主語を変えればそのまま現代にも通じる寓話となる。こうした寓話の真意を読めるなら、メディアや政治家の茶番と嘘も見抜けるはずだ。カルヴィーノもそれを伝えたかったのかもしれない。

 


“半世紀越しの街とその不確かな壁”

29「太平洋の防波」/ 30「愛人」

🇫🇷フランス

マルグリット・デュラス

東インド会社のイギリス社員で、インド官僚として現地で成功した者を”ネイボッブ”という。本国より遥かに多くの富や土地を支配した、所謂アメリカン・ドリームのインド版だ。フランスもアフリカとインドシナを中心に支配した。デュラスはフランス領インドシナに生まれた、カンボジア・ドリームを追って移住したフランス人だった。その鮮烈な体験を著したのが「太平洋の防波堤」、更に50年後に同じテーマと違う文体で再構築を試みたのが「愛人」だ。それぞれ独立した作品としても素晴らしいが、若い才能と晩年の職人芸を読み比べ出来る、世界文学全集ならではのチョイスとなっている。まず若き日の「太平洋の防波堤」は、カンボジアに移住した白人が現地人を搾取しながら金儲けを企んだ、マングローブの防波堤事業に失敗し、家庭崩壊する中で主人公の少女が性と恋に目覚める。「鉄の時代」でも述べたように差別はピラミッド構造を生む。デュラスも本国フランス白人から移住者インドシナ白人、白人から現地人、更に現地白人間の貧富の格差を目の当たりにする。更に昔ならではの家幼く支配的な家庭間格差も存在する。ここでは母が事業失敗の八つ当たりを兄と妹に向ける。ネイボッブの成功した重商主義は既に下火となり、時代は帝国主義で国家第一主義、植民地の失敗した白人など本国は助けない、そして優越感に浸っていたはずの現地カンボジア人にも舐められる。しかしこの物語は完璧ではない。恋愛も家族関係も植民地との関係もらラストで”訣別”こそしたが、”決着”は出来ていない。そこで十分なキャリアを積んだデュラスが、ベテランとなってから挑んだ作品が「愛人」というわけだ。タイトルで分かる通り、今回は「太平洋の防波堤」で消化不良だった愛がテーマ。”18歳で私は老いた”のフレーズが強烈で、全てを物語っている。そのため瑞々しい少女の描写はなく、反対に主人公の少女はエロティックでリアルな大人の階段の昇り方をしてゆく。今度の舞台はベトナムで、母は教師として真面目に働くが役人に嵌められ土地を失う。そして母の代わりに兄が阿片に染まり暴力を振るう。そんな中でボート乗り場で華僑系青年と恋し、愛人関係を結んで縺れながら性体験に目覚めていく。展開は「太平洋の防波堤」と同じで、登場人物や設定を換骨奪胎したといえる。一方で決定的に違う点は”人称”の使い方だ。「太平洋の防波堤」は3人称で他者視点、「愛人」は1人称で語り口からしても、すぐに自伝だと分かるほど心理描写が濃密。実際ほぼ会話文がない独白、つまり過去と現在が交錯する所謂”意識の流れ”文体になっている。ストーリー性でいえば「太平洋の防波堤」が面白いだろう。一方で「愛人」は映画監督としても既に成功していたデュラスが満を持して書いた作品で、複雑な技巧とコラージュが目を引く。文学としてはこちらの方が高度で、実際「愛人」はゴンクール賞を受賞し、大ベストセラーとなった。村上春樹が過去作を最近リライトし、「街とその不確かな壁」を書いたように、自伝のリライトを行う作家は少なからずいるが、デュラスは技法と人称をガラッと変えて最も成功した作家の1人だ。

 


“終着点はハワーズ・エンド

31「ハワーズ・エンド

🇬🇧イギリス

エドワード・モーガン・フォースター

古典と現代文学を比較すると、特に題名に大きな違いが見られることが分かる。人物であれ場所であれ国であれ、古典には固有名詞が題名に採用されることが多い。例えば「オイディプス王」などギリシア悲劇や神話のほぼ全て、「リア王」などシェイクスピア作品のほぼ全て、その後トルストイトーマス・マンなどの時代まで、固有名詞採用はかなり多い。一方で現代文学では非常に少なくなり、抽象名詞の題名が大多数を占める。イシグロやフォークナーやパムクに莫言など、主人公の名前で置き換えられる形容詞があっても、敢えて全て抽象名詞を採用している。これは文学のグローバル化が齎した現象で、所謂”生まれつき翻訳”として自著が初めから翻訳される前提で構成されている。個々人の趣味や記録的体験から大衆を意識した市場商品としての文学は、必然的に多数の読者を意識して書かれるようになり、ヴィクトリア朝〜世界大戦の時代に普及した。フォースターは特に固有名詞で”場所”に拘った作家で、「眺めのいい部屋」や「インドへの道」や「アレクサンドリア」などの著作がある。見て分かる通り、個別の村や街の小規模単位ではなく、都市や国という大規模単位の名詞、更に形容詞+部屋という抽象名詞の題名もあり、フォースターは古典と現代の過渡期に生きた作家だと分かる。「ハワーズ・エンド」はイギリスの田舎の地区を表す題名だ。そして婚姻を通じた両家の異文化理解と拒絶の間で揺れる、ローカルとグローバルの双方を丁寧に描く。主人公はイギリス人のシュレーゲル家の姉妹、姉マーガレットと妹ヘレン、実業家ウィルコックス氏で、場所は田舎の別荘邸宅ハワーズ・エンド。謂わばヴィクトリア時代の「高慢と偏見」的な設定だ。階級社会に付き物の男女の価値観、大土地所有と遺産相続、新興ブルジョワ株式投資家vsジェントリ的金利生活者、知的中産階級vs理想主義的富裕層、ドイツ観念論的哲学vsイギリス経験主義的科学哲学、田舎vs都会、等々。どちらの一家にも偏ることなく、身を任せるように書いていく。この点はイギリスとインドの両文化を客観的に描いた「インドへの道」も同じだ。人間は対立軸が多くとも、いや多いからこそ理解し合わなければならない。その意味で昨今のSNSは類は友しか呼ばず、合わない個は互いに排斥し合うシーンが散見される。フォースターの異文化理解への慎重な姿勢は、過剰で急激なグローバル化が進んだ現代人も見習うべきものだと思う。

 


“rock 'n' roll!〜転がる石になれ〜”

32「ヴァインランド」

🇺🇸アメリ

トマス・ピンチョン

批評家ハロルド・ブルームは現代アメリカ代表作家を挙げ、ドン・デリーロコーマック・マッカーシーフィリップ・ロストマス・ピンチョン、4名を四天王だと述べている、4人とも白人系作家だ。例えばトニ・モリスンもノーベル賞を受賞した黒人女性のアメリカ作家だが、黒人だけが強調されておりマイノリティだ。特に最近のアメリカ作家は移民系が多く、ジュンパ・ラヒリやイーユン・リーなど、創作も活発で面白いしクオリティも高い。しかし例えばフォークナーやヘミングウェイサリンジャーやアップダイクなど、伝統的なアメリカ文学とは一線を画す印象は否めない。その点でロスはユダヤ系作家でアメリカ東部の中都市中産階級の家庭を、デリーロはイタリア系作家でアメリカ東部の大都市上流階級と現代文明と権力批判を、マッカーシーアイルランド系作家でアメリ中南部の農村的下層階級の血と暴力を、それぞれ描くことを得意とする。ピンチョンもアイルランド系作家でアメリカ西部のLAを描く作品を書く。しかし同時に1作品で30カ国を舞台にするなど、超国際的な超長編も多く書いており、地元カリフォルニアを舞台にした小説と二刀流の作家だ。唯一無二のスタイルを貫き、百科全書的な総合ポストモダン文学とも言われる作風の超長編の寡作作家なのだ。ポップカルチャーに理系文系問わずオカルトまで扱い、世界的に見ても最も難解で説明しにくい作家の1人と言える。「ヴァインランド」は全世界を舞台にした他の長編と異なり、地元のカリフォルニアのヒッピー時代をテーマにした作品だ。前作「競売ナンバー49の叫び」と「LAヴァイス」ではカリフォルニア南部を、「ヴァインランド」ではカリフォルニア北部を描いている。主人公は妻が家を後にしたうだつの上がらないシングルファーザーのゾイド。しかし妻の幻影を追う内に、気付けばマフィアのボス、くの一や麻薬抗争に司法権力者まで巻き込み、学生運動時代の過去の魂を思い出していく。セックスにドラッグにアルコールは当たり前。文字通りヒッピー文化の薫陶を受けた時代、カオスなアメリカのポップカルチャーを中心に、ロックンロールやTVが絶大な影響を持ち、ニクソンレーガンなど政治の闇を、陰に陽に痛烈に風刺しながら奔流する物語。脱線ばかりに見えるが、実は時系列や混雑した視点を整えれば壮大な一枚絵のパッチワークとなる。政治批判なきロックなどロックとは呼べない。”rock 'n' roll”の語源は黒人スラングで”Fuck”の意味、文字通り読めば”転がる石になれ”とも読める。読者も主人公もただ母を尋ねて三千里を征く何十年の記憶の旅に身を任せればいい。そうすれば読了時には、”アメリカ合衆国1984年の裏側”が見えてくる。

 


“死に際の老いぼれよ!若き生き様に散れ!”

33「老いぼれグリンゴ

🇲🇽メキシコ

カルロス・フエンテス

北米は先住民を迫害し、中南米は先住民を強姦して支配した。だから北米には白人が多くて人種差別も多い、混血の多い南米には人種差別は少ない。人種が違えば文化も政治も当然違う。アメリカは奪い続けた国といえる。メキシコは米墨戦争以前まで現在の倍の領土を有していた。奪った犯人は勿論アメリカ。この戦争でメキシコが勝っていれば、カリフォルニアもテキサスも、Googleなど巨大IT企業や、或いは世界の覇権さえ、メキシコが握っていたかもしれない。メキシコは新大陸発見以降、ヨーロッパに蹂躙され続けたが、独立後はより強大なアメリカに蹂躙される。フエンテス「老いぼれグリンゴ」はメキシコ人ではなく、アメリカ詩人アンブローズ・ビアスを主人公にした点で特異だ。要は”アメリカ(人)から見たメキシコ(人)”、”メキシコ(人)から見たアメリカ(人)”、それぞれを客観的に描こうと試みた小説だ。グリンゴはメキシコ人のアメリカ人に対する蔑称。ビアスは「悪魔の辞典」や「アウル・クリーク橋の事件」で有名な作家、元軍人で後にジャーナリストとなり作家へも活躍の場を広げた実在の人物だ。南北戦争米墨戦争を経験した世代、また急速にアメリカが領土拡張をしていた時代。晩年のビアスの行動は記録に残っていないが、それをフエンテスは想像で組み立て死地にメキシコを選ぶ設定にした。今度はメキシコ革命を前に、中年メキシコ人アローヨという反政府軍の将軍、裕福ゆえに刺激が足りない若き米国女性ハリエット・ウィンズロウを添え、グリンゴとは対照的な年齢・性別・人種・思想・職種の人間と行動を共にする。人生観の違いを人称を目まぐるしく変える事で、互いに異文化同士だった人間を近づけさせていく。当然グリンゴの心情も徐々に変化していく。この点は人称単位で同一人物が過去・現在・未来を語り、個人的にフエンテスの作品で最高傑作と感じる、「アルテミオ・クルスの死」の応用と言える。この目まぐるしい人称交代の技巧が高く、物理的にも心情的にも読者と主人公たちを近づけさせる。すると次第にアメリカとメキシコの啀み合いの歴史が、愛憎孕むボーダーレスな人情劇に、気付かぬうちに昇華している。勿論ストーリーや情景描写も素晴らしく、早撃ちガンマンや灼熱の砂漠に革命やテキーラ、これぞメキシコという描写が続く。”メキシコだったかもしれないアメリカ”を想像して、アメリカ文学一強の新大陸に一考と一石を投じた傑作だ。

 


“軽蔑と侮蔑ーそして差別と離別”

34「軽蔑」

🇮🇹イタリア

アルベルト・モラヴィア

現代イタリア文学には概ね2つの潮流がある。まず1つは豊かな自国の歴史を背景に、寓意性や歴史に根差した幻想的な文学や古典引用を駆使するタイプの作家。典型例はカルヴィーノエーコ、ランペドゥーサ、タブッキ、ブッツァーティ、ピランデルロなどだ。次に徹底したリアリズムの作家たちで、パヴェーゼ、ギンスブルク、モランテ、パゾリーニがいる。しかし名実ともに突出した巨匠がモラヴィアだ。当時最先端だったコラージュを駆使したゴダール映画と相性が良く、長編も短編も質量ともに評価が高く、国内外は勿論のこと日本でも最も翻訳されたイタリア純文学作家と言える。イメージとしては”冷静な三島由紀夫”。派手な粗筋やどんでん返しがあるわけではないが、日常を繊細で的確な完璧な文章と、手に取るような心理描写で、浮き彫りにすることを得意とする、寧ろ伝統的なフランス文学の系譜と言っても良い。モラヴィアの場合もやはり1人称の心理掘り下げていく。この手の作品は自問自答が多く、クッツェー三島由紀夫も良く使う手法だが、モラヴィアは少しずつ心情の変化を描いて進めていき、それが徐々に悪化する夫婦の距離が非常に上手く伝わる構成になっている。まず主人公は仕事に精を出す既婚男性のシナリオライター。しかし日中デスクワークで疲れ気味、妻との仲も最初こそ良く努めようとしていたが、ページを捲る度お互いストレスが溜まっていく。しかし途中で映画監督が登場し、カプリ島で「オデュッセイア」の映画作成ロケが決定する。この映画化でフロイト的解釈が焦点となり、シナリオライターと妻と映画監督の価値観が三竦みで対立する。更にフロイトと「オデュッセイア」もまとめて、見事に連鎖反応させたラストに繋げる。この手際が鮮やかで、夫婦と仕事、男と女、芸術とビジネス、これらの二項対立がそれぞれに孕みがちな”軽蔑心”を、構成と物語の両方でまとめ上げる。読者に主人公への喜怒哀楽の起伏を餌付けさせ、共感と反感の山と谷を何度も昇降させる。そして気付いたら破局し離別する。ノンストップで油断できない、1人称リアリズム小説の傑作だ。

 


酒呑童子の酔いどれ紀行”

35「やし酒飲み」

🇳🇬ナイジェリア

エイモス・チュツオーラ

アフリカは呪術の伝統が今も強い、特にサブサハラ地域は部族の密集地帯で、ニジェール川デルタが形成するナイジェリアは多部族で人口も多く、口承文学が豊富にある。”アフリカ文学の父”チヌア・アチェベは、歴史を題材に西欧とナイジェリアの邂逅を描いた。しかしこの形式はあくまで西欧の伝統に則ったリアリズムである。その点、チュツオーラは呪術的なアフリカ社会と相性の良いマジックリアリズムや、奇想天外なファンタジーとも分類可能な小説を書いた先駆者だ。まず10歳の子供の頃から酒を飲んでいる、この時点で色々と突っ込み満載だがその説明もない。法律ではなく伝統が支配するアフリカでは、実は儀式上で子供が飲酒することは珍しくない。しかも彼はアル中で毎日やし酒を飲むことしかしていない。しかしある日、腕利のやし酒醸造主が死んでしまう。困った彼は冥府の醸造主を連れ戻すため、死者の町へ行き、奇想天外な旅を繰り広げていく。喋る骸骨の案内、親指から生まれた英雄など、ひたすら有り得ない登場人物に導かれ、時空間の設定も曖昧なまま物語は進んでいく。しかし実はこれら全てはナイジェリアの多数派民族、ヨルバ族の神話に基づいて緻密に組み立てられている。マジックリアリズムは現実を文体や描写で巧みに非現実に変貌させるが、「やし酒飲み」は文体や世界観そのものが非現実的であり、どちらかと言うとファンタジーに近い。ただしアフリカの口承文学の民話に描かれた、多分に呪術的な伝統に根差している点で文学としての価値は非常に高い。またチュツオーラはこの小説を英語で著したが、ヨルバ語の音節や口承文学としてのリズムがきっちり復元されている。逆に言えば近代小説の持つ各ルールや特徴を無視しているが、それ故に作品の自由度は否応に増す。伏線回収があったりなかったり、同じ話がループしたりと、本文でその世界観が直接名言されないマジックリアリズムでありながら、どこか小説としての通軸がある、レヴィ・ストロースの「野生の思考」の合理性を感じられるのだ。それは厳しい部族社会の復讐観や、村特有のコミニティと縄張り意識を含め、非西洋的な社会の非西洋的文学も世界文学として通じるのだろう。その自信から池澤夏樹も本書を世界文学全集に入れたに違いない。

 


“思い出ぽろぽろ手紙リレー”

36「モンテ・フェルモの丘の家」

🇮🇹イタリア

ナタリア・ギンスブルク

手紙形式の小説は書簡体小説と呼ばれる。探してみると古典から現代文学まで意外と多い。ゲーテ「若きウェルテルの悩み」、三島由紀夫「レター教室」、夏目漱石「こころ」、ウェブスター「あしながおじさん」、シェリー「フランケンシュタイン」、モンテスキューペルシア人の手紙」、ドストエフスキー「貧しき人々」、デュマ・フィス「椿姫」、そして世界文学全集に収録されたギンスブルク「モンテ・フェルモの丘の家」だ。最近ではSNSや新聞記事やメールなど、他にも多種多様なコミニュケーションツールが文学にもそのまま登場するが、2000年代までは専ら手紙が主役を演じていた。では書簡体小説の魅力とはなんだろう?、1つ目は主題のコラージュ的クローズアップができること。例えばラブレターなら恋の感情だけを強調でき、余計な情景描写や時間軸や登場人物など気にせず、主観的に語ることができる。2つ目は告白形式の作品が多いこと。要は最初の時点で結末が概ね分かる、若しくはある程度は予想できるのだ。伏線回収や心の機微を如実に描ける分、無駄のない緻密な構成が必要で小説巧者のテクニックを披露できる。3つ目に1人称単数形式が基本となること。手紙は1人で書くもので、往復書簡であれば同じく別人物の1人称単数視点が繰り返される。「モンテ・フェルモの丘の家」が他の書簡体小説と異なる点は、とにかく登場人物が多く、それぞれの人物が思い出話に耽るため時系列もバラバラなこと。逆に読者はそのパズルを組み立てていくのが読みの楽しみと言える。”モンテ・フェルモの丘の家”ことマルガリーテの館、キラキラした若者たちか過ごしあった青春の詰まった家、ずっと今が続くと思っていた、永遠に思えた若さと理想と自由と自信に満ちたあの時。しかしその家がなくなり皆が離散した後に、不可逆的に迫る老いと死と共に寂寞と喪失が思い出を追い越していく。喜怒哀楽と悲喜交々が手紙という断片的な想いと構成を、多くの登場人物が文通することで、複雑な関係性が連結して全貌が明かされる。人生の儚さを知る1冊だ。

 


“拝啓ピーター&敬具マッカーシー

37「アメリカの鳥」

🇺🇸アメリ

メアリー・マッカーシー

ビルドゥングスロマン”という小説のジャンルがある。日本語では”教養小説”と訳すことが多い。要は主人公が作中で思考しながら成長するジャンルだ。「アメリカの鳥」の主人公ピーターも思考を重ね、旅で知見を広げカントをモデルに自分なりの哲学を築いていく。父はイタリア系ユダヤ人のアナキスト、母は風光明媚なニューイングランドの観光地化に反対する活動家。2人の影響もあり、ピーターは母国の欺瞞に疑問を持つ。折しもベトナム戦争グローバル化を主導したアメリカ、母国を客観化するためには外国に渡り視点を変える必要がある。パリやローマでのヨーロッパ学問や文化との邂逅、それは決してドラマティックではない哲学の難解講義や、共産主義と資本主義の構造分析で、小説としては地味でも現実的で真摯なテーマだ。私も学生時代に56カ国を歩いて、真剣に民族問題について考えていた時期がある。だからピーターの気持ちがよく分かる。例えばパレスチナの民族問題を解決すれば、間違いなくノーベル平和賞の偉業だろう。自分にそんな才覚も地位もないのは分かっている、でも気になって居ても立ってもいられない。そして気付けばその視野は世界史から世界一周へ、世界一周から学術書へ、学術書から世界文学に広がり今に至る。池澤夏樹も同じく自分なりの哲学を探究し、世界を放浪してきたお人だ。だから個人の”世界10大小説”に選ぶ程「アメリカの鳥」が好きなのだそう。”アメリカの鳥”とは渡り鳥の様にヨーロッパに飛び立ったピーター自身。その内気ながら誇らしい翼の羽搏きは、確かに近年では見られない失われた小説の様に感じる。

 


悲しみよこんにちは…苦しみよさようなら”

38「悲しみよこんにちは

🇫🇷フランス

フランソワーズ・サガン

“最後のKissは煙草のflavorがした、苦くて切ない香り…”。宇多田ヒカル「First Love」の有名なイントロ。この詩を当時15歳の少女が書いたというのが伝説の度合いを押し上げている。肉体と精神の成長に戸惑う思春期の人間、特に恋を経験する少女のこの時代だけの感性は、生涯を左右する程に影響する。多くの人間が受動能動で摂取するスポーツや音楽は当然だが、特に感覚と経験以上に具体的な知識と語彙力も要求される文学の世界で、若くして才能を発揮した、それも女性として処女作で成功した作家は稀有だ。つまり若者にしか書けない作品がある。サガンは18歳で「悲しみよこんにちは」を発表し、瞬く間に世界的な作家になった。そして以後も全てこの作品を模した小説を書き続け、この作品のように生きて死んだ。若くて美人な早熟の天才作家は、換骨奪胎のストーリーでも会話と心理描写のセンスが抜群で飽きさせない。主人公セシルは18歳で当時のサガンと同年齢、父はチャラ男で実際ガールフレンドも本書では2人も登場する。その1人エルザと父とセシルの3人、歪な三角関係で始まる南フランス別荘でのバカンス。更に父のもう1人の恋人アンヌが参戦し、しかも再婚の用意を始めることに勘づくに至り、セシルはある計画をこのバカンスに仕掛けていく。思春期の無垢さと大人の残酷さ、少女の喜怒哀楽と葛藤と何より悲しみ、更にセシル自身の恋愛経験も相まって、危うく脆くそれでいて繊細で初心な心が、コートダジュールの波風をバックに見事に再現される。セシルは承知の上で行った自身の選択と計画に戸惑い苦しみ、その感情に名を授ける、”悲しみよこんにちは”と。この後サガンは自動車事故で急死に一生を得るが、莫大な収入をゴシップ顔負けの放蕩三昧に使い果たし、続作を書くも遺産は息子には殆ど残さなかった。サガンはこの後ドラッグ・脱税・アル中・バイセクシャルといずれも過剰に浸り続け、晩年は借金と肉体と精神の疾患に苦しんだ。本作を準えて生きたサガンも今際の際にセシルの様に、派手で自堕落な人生に後悔していたのではないか?、だとしたら漸く”苦しみよさようなら”と、処女作と同じ様に散ることが出来たかもしれない。

 

“寓意が寓意を呼ぶ不条理の暗夜行路”
39「暗夜」

🇨🇳中国

残雪

「黒檀」はルポルタージュ文学であるため例外として、本全集唯一の短編小説集が「暗夜」だ。残雪の作風はカフカ的不条理と良く引き合いに出される、不思議な世界観が次々に繰り広げられるにも関わらず、原因や動機が全く描写されない。何らかの寓話であることは匂わせているが、何の寓話かは見当がつかない。必然的に説明がない分、密度は濃いがページが薄くなりがち、プロットもある様でないとも感じるし、ないようである様にも感じる。例えば「突囲表演」は主役でありながらX女史は、若き美女であり、皺だらけの老婆であり、豆腐屋であり、国家諜報員であり、謎に包まれた人物なのだ。これがカフカの場合、例えば「変身」のザムザは虫になって家族から無視されるが、この主語を虫から鬱やネグレクトに変えれば、たちまち現代にも通じる寓話となる。「城」のKも巨大官僚機構の隠喩など概ね分かりやすい。一方で残雪は短編にしろ長編にしろ何の寓話か分からない、しかも複数の寓話のミックスにも見受けられる。巨大すぎる世界観に対して、各登場人物は蟻の様に小さく見える様に設定することで、寓意性を暈すことに成功している。何らかの寓意分かっても、何の寓意なのかまでは分からない、そこが残雪の特異な点だ。7つの短編集の内訳は以下の通り、1「阿梅、ある太陽の日の愁い」、2「私のあの世界でのこと・・・友へ」、3「帰り道」、4「痕」、5「不思議な木の家」、6「世外の桃源」、7「暗夜」。どれも池澤夏樹自身がこの短編のために編んだオリジナル作品集で、設定もキャラも長さもバラバラだが、残雪らしい世界観は共通している。桃源郷にある峠跨ぎの長大ブランコ、雲を突き抜ける世界一高い家。全て非現実的だが叙述でそれを表現するマジックリアリズムとも違う。読者に対して意味は分からずとも、論理性が通用しない世界を自身で設定し、強靭なリーダビリティで持って読ませる。これも文学の楽しみの1つだ。

 


“絶望しない程度の失望に身を任せて”

40「失踪者」

🇨🇿チェコ

フランツ・カフカ

私は正直カフカが苦手、自分の言葉でオリジナルの評論は書けず、従ってこの全集でもカフカと、更に極めてカフカ的な作品を書く残雪は、私の拙い評論力からランキング下位にせざるを得なくなっている。またカフカであれば「失踪者」より、「城」と「変身」の方が傑作と感じるのもあり、全集で最も有名な作家ながら最下位にした形だ。まずこの国の舞台はアメリカで、航海の果てに辿り着いた自由の国で失踪者となる。カフカ自身は生前は無名のまま若くして没した。中産階級で保険屋だった彼は当然、遥か彼方のアメリカに行ってはいない。だからカフカは従姉妹の体験を基にまずは短編「火夫」を、次に自分の想像で当時イギリスを抜いて覇権を握った、アメリカという自由の国を書いている。他のカフカ長編同様に、本作も未完である。表題の「失踪者」は従来は「アメリカ」と訳されてきた。他の代表作である「城」や「変身」や「断食芸人」は、閉鎖的空間に留まり続ける主人公が不条理に揉まれていくが、「失踪者」の主人公カール・ロスマンは、ドイツからアメリカに渡ることからも分かるように、開放的空間で足掻き続ける中で不条理が降り注ぎ続ける点で異なる。アメリカに渡る船の中での待遇や不穏な雰囲気から、既に明るい未来は約束されていないことが感じられる。ニューヨーク到着後に上院議員の叔父の機知を得るが、敢えなく追い出されエレベーターボーイとなり、そのまま理不尽に転落を重ねていく。展開も早くロードノベルの様に旅をする、というよりせざるを得ない状況に追い込まれる。諧謔的だが不条理というより不器用に近い印象を受ける。その意味で他のカフカ作品に比べて記号的な主人公や、人間味のない近代官僚主義的物質社会とも異なる。カズオ・イシグロも実物の都市の様相とは異なる、自身が想像したオリジナルの街のイメージを表現するのが上手いが、カフカの描くニューヨークも非現実的ながら、多階級多階層の人間を上手く捌いている。シュール・コミカル・グロテスクのバランスが良く、”失望”すれど”絶望”にまでは陥らない。カールの翻弄される姿が、飼い慣らされた現代日本人と重なるのは私だけだろうか?