MarioPamuk’s diary

海外文学と学術書の短文感想&忘備録

“終着点はハワーズ・エンド”

31「ハワーズ・エンド

🇬🇧イギリス

エドワード・モーガン・フォースター

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古典と現代文学を比較すると、特に題名に大きな違いが見られることが分かる。人物であれ場所であれ国であれ、古典には固有名詞が題名に採用されることが多い。例えば「オイディプス王」などギリシア悲劇や神話のほぼ全て、「リア王」などシェイクスピア作品のほぼ全て、その後トルストイトーマス・マンなどの時代まで、固有名詞採用はかなり多い。一方で現代文学では非常に少なくなり、抽象名詞の題名が大多数を占める。イシグロやフォークナーやパムクに莫言など、主人公の名前で置き換えられる形容詞があっても、敢えて全て抽象名詞を採用している。これは文学のグローバル化が齎した現象で、所謂”生まれつき翻訳”として自著が初めから翻訳される前提で構成されている。個々人の趣味や記録的体験から大衆を意識した市場商品としての文学は、必然的に多数の読者を意識して書かれるようになり、ヴィクトリア朝〜世界大戦の時代に普及した。フォースターは特に固有名詞で”場所”に拘った作家で、「眺めのいい部屋」や「インドへの道」や「アレクサンドリア」などの著作がある。見て分かる通り、個別の村や街の小規模単位ではなく、都市や国という大規模単位の名詞、更に形容詞+部屋という抽象名詞の題名もあり、フォースターは古典と現代の過渡期に生きた作家だと分かる。「ハワーズ・エンド」はイギリスの田舎の地区を表す題名だ。そして婚姻を通じた両家の異文化理解と拒絶の間で揺れる、ローカルとグローバルの双方を丁寧に描く。主人公はイギリス人のシュレーゲル家の姉妹、姉マーガレットと妹ヘレン、実業家ウィルコックス氏で、場所は田舎の別荘邸宅ハワーズ・エンド。謂わばヴィクトリア時代の「高慢と偏見」的な設定だ。階級社会に付き物の男女の価値観、大土地所有と遺産相続、新興ブルジョワ株式投資家vsジェントリ的金利生活者、知的中産階級vs理想主義的富裕層、ドイツ観念論的哲学vsイギリス経験主義的科学哲学、田舎vs都会、等々。どちらの一家にも偏ることなく、身を任せるように書いていく。この点はイギリスとインドの両文化を客観的に描いた「インドへの道」も同じだ。人間は対立軸が多くとも、いや多いからこそ理解し合わなければならない。その意味で昨今のSNSは類は友しか呼ばず、合わない個は互いに排斥し合うシーンが散見される。フォースターの異文化理解への慎重な姿勢は、過剰で急激なグローバル化が進んだ現代人も見習うべきものだと思う。